飯山幼稚園は2024年に開園75周年を迎えました!

 飯山幼稚園のはじまりは1949712日に現園長の祖母、松尾そ代が開園した飯山保育園にさかのぼります。最初は保育園で、幼稚園となったのは1955210日です。2024年は保育園時代から数えて75年の節目ですので、当園の歩みを知る方々からその時々の様子を聞きました。
1.開園のころ
松尾家の面々
左から長女綾子、そ代、次男成久、三男邦彦、そ代の夫与助、次女裕子、長男澄男


 最初は、園長松尾そ代の次女裕子が語る開園当初の様子です。開園した1949年は元号では昭和24年、今ではピンとこない方も多いと思いますが、日本が米国を相手に戦争をして日本中が米軍の爆撃で焼け野原になった太平洋戦争(第二次世界大戦)が日本の敗戦で終わったのが昭和20年ですから、そのわずか4年後、鶴見の街にも進駐軍(米軍)が駐留していたそうです。日本全体が戦争で多くを失い貧しかった時代、教育改革に熱心だった米軍の影響で、当初は幼稚園の認可が得られず保育園として発足しました。

 当初の保育園は自宅の八畳二間にオルガン1台、椅子と机という質素なもので、まだ学生だった5人兄弟が全員で母親の幼稚園を手伝ったそうです。裕子は後年そ代が病気をした際には園長代行も務めました。テレビはなく、スライドや8mmの映写(幻灯)でしたが保育内容は紙芝居、指人形、粘土、折り紙、お遊戯など今に続くものだったようです。このころは先生や保護者が見守る集団登園でした。

 保育園は給食が義務で、主食をはじめとして物資の配給を受けていましたが、まずい脱脂粉乳などで栄養価の基準を満たすのが大変だったとか。食べ物があふれる今日からは想像もつきません。

 このような時代にそ代が大切にしたのが地元との交流で、白幡神社への参拝や、近隣の高齢者を園に招いての会合など、地域に密着した幼稚園として高齢者の福祉にも取り組んでいました。

 母は食料すら満足にない時代に5人の兄弟を育てるために懸命に働いたという面もあったかもしれない、と裕子は感謝しています。そ代の夫の松尾与助も教育者であったことから、社会の中で人を育てることが自然とライフワークになったのかもしれません。今風に言えば女性起業家の草分けでしょうか。



2.初代卒園生が見た飯山”保育園“
第一回卒園児と教員
中央の着物姿がそ代。園児は20人余だろうか (早津晴樹さん提供)
 今は東京在住ですが、81歳になられてご自身の人生の出発点をたどる中でたまたま飯山幼稚園を訪ねてくださった早津晴樹さん(ご記憶では第1回の卒園生)が卒園式の写真を持参してくださいました。また、ホームページ作成にあたり、当時のエピソードを思い出として寄稿していただきましたので、飯山幼稚園の黎明期の風景として紹介させていただきます。

「飯山保育園から見えた自然豊かな飯山そして荒立の風景」
 門を入ると、左手にジャングルジム、その隣が滑り台、鉄棒、そして教室前は砂場。園児には、無限に広い遊び場だ。

 門を飛び出すと、すぐ前は「浅川商店」。舗装なんてない道路は、馬が引いた荷馬車も通った。右手には、田辺さんの田んぼ、魚屋さん、パン屋さん、そして床屋さん。子どもが夢を見る、駄菓子屋、国道沿いには「八百政」があった。

 東寺尾は自然が豊かで、林や水辺にはカエルもヘビも日常の眺め。庭の桜の木には青大将の抜け殻がかかっていたことも。白幡神社は、暗いうっそうとした森。子どもには、冒険心を掻き立てる、深くて広い自然の遊び場だった。通行禁止の田んぼの畦道を通っては叱られた。春には丘へ登る細い道にすみれの花が咲く、春の香りだ。田んぼの田起こしが始まる。カエルの大合唱もこの頃だ。

 夏は、子どもの季節。小川には、ドジョウ、メダカ、タガメ、ゲンゴロウ、テナガエビ、自然はいっぱいだ。朝早く起きて、カブトムシをさがしに、畑の向こうの樹に向かって突進、カブトムシ見つけた!!あの感覚は今でもここにある。セミはうるさいほど鳴く。夜になると、裏の樹でフクロウが鳴く

~中略~

 あのとき歩いた道は、土の道。ぬかるみの道。でも、草原(くさはら)に子どもを招く夢の道。凧揚げの先には富士山の風景。夕日が富士山にかかるころ、子どもの時間は終わる。

 はるかに遠い80年近くも前の夢のような世界。私の心の奥底を決めた世界。飯山幼稚園は夢の世界を生み出す不思議な幼稚園。在籍の園児のみんなの80年後の夢はどんな夢!楽しい世界が待っている。この私の楽しい思い出は、あの砂場から、鉄棒から、ジャングルジムから、蛇の抜け殻から、そして田んぼのドジョウから始まった。

 もう一度見たい夢は、もう遠い、遠いはるかなかなた。黄昏時に見る夢は、飯山の世界。宝物はもう戻らない。
飯山幼稚園は永遠の夢の世界だ!!!



3.二代目園長、副園長の時代
 創設者そ代は30年以上にわたり幼稚園に関わり、昭和55年(1980年)10月に85歳で世を去りました。そ代の長女綾子が園長を引き継ぎ、隣地に医院を開業していた長男澄男の妻、美奈子が副園長として経営を支える体制になりました。日本が高度成長期を経てお子さんの数も増え、幼稚園が足りず入園のために保護者が未明から門に並ぶという時代でした。園児数が最も多かったのもこの頃で、出版社に勤務した経験を持つ副園長の個性が発揮された時代でもありました。

 近隣には、親子代々飯山幼稚園に通ったというご家族がおられるので、当時を知る方々に印象に残った点を伺ったところ、保護者の交流という声をいただきました。「母の会」役員を中心に保護者かかわる行事が多く、お遊戯会の衣装作り、お泊り保育、バス遠足(上野動物園やこどもの国)芋掘り遠足(十日市場)などがあり、それぞれ慰労会も行われていたようです。2年保育で、集団登園が行われていた時代です。

 また、徒歩通園になってからでは、季節を感じながらの通園時間の親子の会話が楽しく、親同士も自然と仲良くさせていただいたという声もありました。皆さん30年以上前のことを鮮明に記憶されており、子供が幼稚園に通った2年間は忙しかったけれど、今となってはあっという間だったとの感想も寄せられました。

 インターネットやパソコン、携帯電話はまだ今ほど普及しておらず、固定電話を次々にかけて伝言をする「連絡網」が唯一の連絡手段だった時代です。時代の変化で便利になったこと、それに伴って消えていったものもあるということでしょうか。社会の変化を感じる部分もあり、昔は今より先生が厳しかったという印象もあるようです。1980年前後の幼稚園での行事の写真を見せていただきましたが、寺尾小学校での運動会など多くは今も受けつがれています。



右は1982年当時「母の会」が卒園記念品として配布していたアルバム、下は昨年までの卒園記念写真、左は75周年記念フォルダー、今年の卒園記念品はリニューアル中!

4.75周年への道のり
 その後三代目の園長となった美奈子も令和4年(2022年)3月にこの世を去り、美奈子の長女が園長になりました。就任時すでに20年以上幼稚園の経営にかかわっており、平成27年度(2015年)の国の幼児教育無償化対応を含めスムーズな継承でした。

 一方、女性の社会進出が進み、スマートフォンが普及、かかる時間やコストが強く意識されるなど、社会の変化に伴い新たなニーズにこたえていくことになりました。少子化が進み、待機児童問題から保育園が急増、保育園も3歳からは無償になり、鶴見区全体で幼稚園の園児数が減少していきます。

 長時間の預かり保育がなく、通園バスも使わないなど、学校法人や規模の大きい幼稚園に比べ保育時間や施設面で劣る小規模の個人が運営する幼稚園の存在意義が問われます。「前を通り、子供たちが楽しそうにしているからここにした」という保護者の声がある一方、「良くも悪くも昔ながらの幼稚園」との指摘もあります。

 園児の安全対策、個人情報保護、感染症対策や災害対策など、先代のころとは違った課題も多く、保護者が保育に求めるものも変化しています。週一回、小学校との連携を通じ必要と感じられた給食や、時代の要請ともいえる英語のクラスを始めました。一方で万が一に備えた24時間の監視カメラ、災害対応の備蓄や近隣の横浜商科大学との提携による避難訓練、園医の医療支援など、そ代の時代には想像もできないことにも取り組んできました。創設者の遺志を継ぎ、教職員のチームワークで子供第一の運営に努めるとともに、変えていくべきことは変え、守るべきものを守り、地域に密着した運営を心掛けています。

 


5.結びにかえて

 おかげさまで飯山幼稚園は75周年を迎えることができました。幼稚園にお子さんを通わせていただき一緒に子育てに向き合っていただいた保護者の方々、地域の方々をはじめ、日ごろお世話になっている皆様に心より深く御礼を申し上げます。

 また、当時を知る方々にご協力いただき、飯山幼稚園の開園当初を振り返ることができました。今はマンションや戸建て、駐車場が並び、商店も減った東寺尾・飯山通りですが、75年前の飯山“保育園”は豊かな自然に囲まれていたことが手に取るようにわかります。第一回卒園生早津さんが70年以上前のことを今も鮮明に記憶されていることに驚き、91歳の叔母裕子が語る祖母の姿には今に通ずる思いを感じます。人生100年時代と言われますが、幼稚園時代の体験がとても重要であることをあらためて感じました。これからの保育の中で園児の皆さんが少しでも自然を体験できるよう努めたいと気持ちを新たにしました。

 二代目園長・副園長の時代については、園児の祖父母の方々に保護者の立場から見えた幼稚園を語っていただきました。あらためて時代の変化を感じるとともに、お子さんやお孫さんを飯山幼稚園に通わせていただいたことが大変ありがたく、先代の目指したものを僅かでも継承できたのではないかと感じました。(園長談)

(文責 飯山幼稚園)



飯山幼稚園は2024年に開園75周年を迎えました!
 飯山幼稚園のはじまりは1949712日に現園長の祖母、松尾そ代が開園した飯山保育園にさかのぼります。最初は保育園で、幼稚園となったのは1955210日です。2024年は保育園時代から数えて75年の節目ですので、当園の歩みを知る方々からその時々の様子を聞きました。
1.開園のころ
松尾家の面々
左から長女綾子、そ代、次男成久、三男邦彦、そ代の夫与助、次女裕子、長男澄男

 最初は、園長松尾そ代の次女裕子が語る開園当初の様子です。開園した1949年は元号では昭和24年、今ではピンとこない方も多いと思いますが、日本が米国を相手に戦争をして日本中が米軍の爆撃で焼け野原になった太平洋戦争(第二次世界大戦)が日本の敗戦で終わったのが昭和20年ですから、そのわずか4年後、鶴見の街にも進駐軍(米軍)が駐留していたそうです。日本全体が戦争で多くを失い貧しかった時代、教育改革に熱心だった米軍の影響で、当初は幼稚園の認可が得られず保育園として発足しました。

 当初の保育園は自宅の八畳二間にオルガン1台、椅子と机という質素なもので、まだ学生だった5人兄弟が全員で母親の幼稚園を手伝ったそうです。裕子は後年そ代が病気をした際には園長代行も務めました。テレビはなく、スライドや8mmの映写(幻灯)でしたが保育内容は紙芝居、指人形、粘土、折り紙、お遊戯など今に続くものだったようです。このころは先生や保護者が見守る集団登園でした。

 保育園は給食が義務で、主食をはじめとして物資の配給を受けていましたが、まずい脱脂粉乳などで栄養価の基準を満たすのが大変だったとか。食べ物があふれる今日からは想像もつきません。

 このような時代にそ代が大切にしたのが地元との交流で、白幡神社への参拝や、近隣の高齢者を園に招いての会合など、地域に密着した幼稚園として高齢者の福祉にも取り組んでいました。

 母は食料すら満足にない時代に5人の兄弟を育てるために懸命に働いたという面もあったかもしれない、と裕子は感謝しています。そ代の夫の松尾与助も教育者であったことから、社会の中で人を育てることが自然とライフワークになったのかもしれません。今風に言えば女性起業家の草分けでしょうか。


2.初代卒園生が見た飯山”保育園“
第一回卒園児と教員
中央の着物姿がそ代。園児は20人余だろうか (早津晴樹さん提供)
 今は東京在住ですが、81歳になられてご自身の人生の出発点をたどる中でたまたま飯山幼稚園を訪ねてくださった早津晴樹さん(ご記憶では第1回の卒園生)が卒園式の写真を持参してくださいました。また、ホームページ作成にあたり、当時のエピソードを思い出として寄稿していただきましたので、飯山幼稚園の黎明期の風景として紹介させていただきます。
「飯山保育園から見えた自然豊かな飯山そして荒立の風景」
 門を入ると、左手にジャングルジム、その隣が滑り台、鉄棒、そして教室前は砂場。園児には、無限に広い遊び場だ。

 門を飛び出すと、すぐ前は「浅川商店」。舗装なんてない道路は、馬が引いた荷馬車も通った。右手には、田辺さんの田んぼ、魚屋さん、パン屋さん、そして床屋さん。子どもが夢を見る、駄菓子屋、国道沿いには「八百政」があった。

 東寺尾は自然が豊かで、林や水辺にはカエルもヘビも日常の眺め。庭の桜の木には青大将の抜け殻がかかっていたことも。白幡神社は、暗いうっそうとした森。子どもには、冒険心を掻き立てる、深くて広い自然の遊び場だった。通行禁止の田んぼの畦道を通っては叱られた。春には丘へ登る細い道にすみれの花が咲く、春の香りだ。田んぼの田起こしが始まる。カエルの大合唱もこの頃だ。

 夏は、子どもの季節。小川には、ドジョウ、メダカ、タガメ、ゲンゴロウ、テナガエビ、自然はいっぱいだ。朝早く起きて、カブトムシをさがしに、畑の向こうの樹に向かって突進、カブトムシ見つけた!!あの感覚は今でもここにある。セミはうるさいほど鳴く。夜になると、裏の樹でフクロウが鳴く

~中略~

 あのとき歩いた道は、土の道。ぬかるみの道。でも、草原(くさはら)に子どもを招く夢の道。凧揚げの先には富士山の風景。夕日が富士山にかかるころ、子どもの時間は終わる。

 はるかに遠い80年近くも前の夢のような世界。私の心の奥底を決めた世界。飯山幼稚園は夢の世界を生み出す不思議な幼稚園。在籍の園児のみんなの80年後の夢はどんな夢!楽しい世界が待っている。この私の楽しい思い出は、あの砂場から、鉄棒から、ジャングルジムから、蛇の抜け殻から、そして田んぼのドジョウから始まった。

 もう一度見たい夢は、もう遠い、遠いはるかなかなた。黄昏時に見る夢は、飯山の世界。宝物はもう戻らない。
飯山幼稚園は永遠の夢の世界だ!!!


3.二代目園長、副園長の時代
 創設者そ代は30年以上にわたり幼稚園に関わり、昭和55年(1980年)10月に85歳で世を去りました。そ代の長女綾子が園長を引き継ぎ、隣地に医院を開業していた長男澄男の妻、美奈子が副園長として経営を支える体制になりました。日本が高度成長期を経てお子さんの数も増え、幼稚園が足りず入園のために保護者が未明から門に並ぶという時代でした。園児数が最も多かったのもこの頃で、出版社に勤務した経験を持つ副園長の個性が発揮された時代でもありました。

 近隣には、親子代々飯山幼稚園に通ったというご家族がおられるので、当時を知る方々に印象に残った点を伺ったところ、保護者の交流という声をいただきました。「母の会」役員を中心に保護者かかわる行事が多く、お遊戯会の衣装作り、お泊り保育、バス遠足(上野動物園やこどもの国)芋掘り遠足(十日市場)などがあり、それぞれ慰労会も行われていたようです。2年保育で、集団登園が行われていた時代です。

 また、徒歩通園になってからでは、季節を感じながらの通園時間の親子の会話が楽しく、親同士も自然と仲良くさせていただいたという声もありました。皆さん30年以上前のことを鮮明に記憶されており、子供が幼稚園に通った2年間は忙しかったけれど、今となってはあっという間だったとの感想も寄せられました。

 インターネットやパソコン、携帯電話はまだ今ほど普及しておらず、固定電話を次々にかけて伝言をする「連絡網」が唯一の連絡手段だった時代です。時代の変化で便利になったこと、それに伴って消えていったものもあるということでしょうか。社会の変化を感じる部分もあり、昔は今より先生が厳しかったという印象もあるようです。1980年前後の幼稚園での行事の写真を見せていただきましたが、寺尾小学校での運動会など多くは今も受けつがれています。


右は1982年当時「母の会」が卒園記念品として配布していたアルバム、下は昨年までの卒園記念写真、左は75周年記念フォルダー、今年の卒園記念品はリニューアル中!
4.75周年への道のり
 その後三代目の園長となった美奈子も令和4年(2022年)3月にこの世を去り、美奈子の長女が園長になりました。就任時すでに20年以上幼稚園の経営にかかわっており、平成27年度(2015年)の国の幼児教育無償化対応を含めスムーズな継承でした。

 一方、女性の社会進出が進み、スマートフォンが普及、かかる時間やコストが強く意識されるなど、社会の変化に伴い新たなニーズにこたえていくことになりました。少子化が進み、待機児童問題から保育園が急増、保育園も3歳からは無償になり、鶴見区全体で幼稚園の園児数が減少していきます。

 長時間の預かり保育がなく、通園バスも使わないなど、学校法人や規模の大きい幼稚園に比べ保育時間や施設面で劣る小規模の個人が運営する幼稚園の存在意義が問われます。「前を通り、子供たちが楽しそうにしているからここにした」という保護者の声がある一方、「良くも悪くも昔ながらの幼稚園」との指摘もあります。

 園児の安全対策、個人情報保護、感染症対策や災害対策など、先代のころとは違った課題も多く、保護者が保育に求めるものも変化しています。週一回、小学校との連携を通じ必要と感じられた給食や、時代の要請ともいえる英語のクラスを始めました。一方で万が一に備えた24時間の監視カメラ、災害対応の備蓄や近隣の横浜商科大学との提携による避難訓練、園医の医療支援など、そ代の時代には想像もできないことにも取り組んできました。創設者の遺志を継ぎ、教職員のチームワークで子供第一の運営に努めるとともに、変えていくべきことは変え、守るべきものを守り、地域に密着した運営を心掛けています。

 

5.結びにかえて

 おかげさまで飯山幼稚園は75周年を迎えることができました。幼稚園にお子さんを通わせていただき一緒に子育てに向き合っていただいた保護者の方々、地域の方々をはじめ、日ごろお世話になっている皆様に心より深く御礼を申し上げます。

 また、当時を知る方々にご協力いただき、飯山幼稚園の開園当初を振り返ることができました。今はマンションや戸建て、駐車場が並び、商店も減った東寺尾・飯山通りですが、75年前の飯山“保育園”は豊かな自然に囲まれていたことが手に取るようにわかります。第一回卒園生早津さんが70年以上前のことを今も鮮明に記憶されていることに驚き、91歳の叔母裕子が語る祖母の姿には今に通ずる思いを感じます。人生100年時代と言われますが、幼稚園時代の体験がとても重要であることをあらためて感じました。これからの保育の中で園児の皆さんが少しでも自然を体験できるよう努めたいと気持ちを新たにしました。

 二代目園長・副園長の時代については、園児の祖父母の方々に保護者の立場から見えた幼稚園を語っていただきました。あらためて時代の変化を感じるとともに、お子さんやお孫さんを飯山幼稚園に通わせていただいたことが大変ありがたく、先代の目指したものを僅かでも継承できたのではないかと感じました。(園長談)

(文責 飯山幼稚園)